西山圭先生の未公開シークレット小説『霧のゴンドラ』です。
先生“渾身”の作品をどうぞお楽しみください!
霧のゴンドラ
プロローグ
白い霧が、ゴンドラを包み込んでいた。
「たすけて……誰か、たすけて!」
女性の悲鳴が、霧の中で反響する。スマートフォンのライブ配信画面には、激しく揺れる映像が映し出されていた。視聴者数を示す赤いカウンターが急上昇を続け、画面の下部には次々とコメントが流れていく。
「マジでやばい!」
「これ、本物?」
「どこの観光地?特定できる人いる?」
「絶対フェイク。映画の宣伝でしょ」
「通報した方がいいんじゃ……」
「アルトラモンテ」
「アルモン事故」
「管理人さん、警察呼んで!」
霧に覆われたゴンドラの中で、誰かが苦しげに呻く。金属が軋むような不気味な音。そして、暗闇の中で何かが光る——。
パチン、という乾いた音とともに、配信が突然途切れた。
画面の向こうで悲鳴を上げる視聴者たち。しかし、その時すでに、惨劇は始まっていた。
この物語は、標高1500メートルの密室で起きた、2時間の恐怖の記録である。
第一章 最後の夜間ゴンドラ
アルトラモンテ山岳リゾート・山麓駅前。
夕暮れの空が深い紫色に染まり始めた頃、観光客たちがスマートフォンを手に熱心に写真を撮影していた。背景には、山頂駅まで一直線に伸びるゴンドラのケーブルライン。オレンジ色の夕日に照らされた金属の輝きが、まるで天空への階段のように見える。
「アルトラモンテの夕陽」
「いいね数、また更新!」
「この位置からの写真が一番映えるよ」
観光客たちの会話が、心地よい喧騒として辺りに漂っていた。
佐伯亮介は、その光景をやや距離を置いて眺めていた。ネイビーブルーのジャケットの下のシャツは少しシワが寄り、3日分のヒゲが伸びた頬はやつれて見える。旅行ジャーナリストとしての取材の疲れが、深く刻まれた額のシワに表れていた。
彼は取り出したスマートフォンで、過去の記事を再確認する。
『アルトラモンテ・リゾート、昨年の売上高は過去最高を更新 —— SNS人気で急成長』
『夜間ゴンドラがリニューアル、最新鋭の安全システムを導入』
『山岳リゾートの新たな挑戦 —— 企業投資による観光地の革新』
しかし、佐伯が本当に探していたのは、これらの華やかな表面の下に潜む闇だった。彼のメモ帳には、「2年前の事故」「企業の隠蔽工作?」「内部告発の可能性」といった走り書きが並んでいる。
「すみません、通していただけますか」
背後から聞こえた声に振り向くと、黒いスーツに身を包んだ女性が足早に歩いてきていた。キャリーバッグを片手に持ち、もう片方の手には書類の束。表情には焦りの色が見える。
佐伯が道を譲ろうとした瞬間、強い夕風が吹き抜けた。女性の手から書類が舞い上がり、辺りに散らばっていく。
「あっ!」
二人が同時にしゃがみこんで書類を拾おうとした時、彼らの手が重なった。女性は一瞬身を竦ませ、素早く手を引っ込める。その時佐伯は、彼女の表情をはっきりと見ることができた。
整った顔立ちの中に秘められた、何か深い影のような翳り。黒縁の眼鏡の奥で、鋭い知性を感じさせる瞳が光る。そして胸元では、「城ヶ崎真理 —— 国際投資開発機構」と書かれた社員証がかすかに揺れていた。
「ありがとうございます」
素っ気なく言い残すと、城ヶ崎は拾い集めた書類を抱えて足早に山麓駅の建物へと消えていった。佐伯は、その後ろ姿を見送りながら、どこかで見覚えがあるような気がして首を傾げた。
夜間ゴンドラの最終便を待つ人々が、すでに小さな列を作り始めていた。天気予報では夜霧の発生が警告されているにもかかわらず、夜景を楽しもうという観光客の列は途切れない。
「はーい、みんな見てるー?愛紗です!今日は、超話題のアルトラモンテからライブ配信!」
明るい声が響き渡る。ピンク色のグラデーションをかけた長い髪を揺らしながら、20代前半の女性が装飾を施した自撮り棒を手に、カメラに向かって話しかけている。彼女の周りには、すでに小さな人だかりができていた。
「フォロワーの皆さん、待ってました?今夜は山頂からの絶景、独占配信しちゃいます!もう、めっちゃ綺麗なんだって。来たことある人いたら、コメントで教えてね!」
榊原愛紗の声は弾んでいたが、その目には視聴者数を確認する計算高さも覗いていた。SNSでの彼女のハンドルネーム「アイシャ」は、すでに100万フォロワーを抱える人気インフルエンサーとして知られている。
佐伯は、取材ノートに「SNSマーケティングの影響→地域経済への波及」とメモを走り書きした。
「まったく、若い人は元気でいいわねえ」
佐伯の隣で、銀色の杖を持った老婦人が静かに微笑んでいた。上品な濃紺のワンピースに身を包み、白髪を丁寧に束ねた姿からは、かつての優雅さが漂う。三島貴子は、行き交う人々を物静かに観察していた。その穏やかな表情の奥に、鋭い観察眼が光っているのを、佐伯は見逃さなかった。
駅舎の入り口付近では、作業着姿の男性が駅員と真剣な表情で話し込んでいる。
「ケーブルの定期点検は完了しているんですか?」
「はい、先週終わったばかりです」
「私にも確認させてください。以前、整備士として……」
男性の作業着には「工藤誠」という名札が付いていた。かつてこの施設で整備士として働いていた彼は、2年前の事故以来、どこか暗い影を背負っているように見えた。婚約者を失ってから、彼の瞳から笑顔が消えたという噂を、佐伯は取材で耳にしていた。
その横では、若い研究者らしき女性が気象データをタブレットで熱心に確認している。ファルハ・パテル。アルトラモンテの特異な霧の発生メカニズムを研究している大学院生だ。彼女の指先が、スクリーン上の気圧データの上を素早く動いていく。
「この気圧配置、珍しいわ……」彼女の眉が、わずかに寄せられる。
高級スーツに身を包んだ50代の男性は、いらだたしげにロレックスの文字盤を見つめていた。上條大介。アルトラモンテ・ゴンドラの大株主の一人であり、最近のリニューアル計画の中心人物だ。彼のスマートフォンは、株価チェックの画面を表示したままだった。
宝石デザイナーの桐生香織は、装飾が施された黒革のブリーフケースを両手で大事そうに抱えていた。40代半ばの彼女は、厳選されたブランドの服に身を包み、首元にはさりげなく高価な真珠のネックレスが輝いている。
「上條様、お待たせして申し訳ありません」
彼女は上條に近づき、小声で何やら話し始めた。二人の間で、書類らしきものが素早く交わされる。
先ほどの城ヶ崎も、スマートフォンに熱心に見入りながら列に並んでいた。彼女の表情は硬く、何か心配事があるように見える。時折、上條の方をちらりと見やっては、唇を噛んでいた。
最後の二人は、他の乗客とは少し距離を置いて立っていた。
一人は、高級なスーツに身を包んだ40代後半の男性。橋本剛。洗練された物腰の中に、どこか計算高そうな雰囲気を漂わせている。もう一人は、カジュアルな服装の30代女性、中村洋子。観光客のように見えて、時折周囲を警戒するような視線を投げかけている。
二人とも、何か考え事をしているような表情を浮かべていた。特に橋本は、城ヶ崎と上條の方を交互に見やりながら、意味ありげな薄笑いを浮かべている。
佐伯は、これら10人の乗客の様子を注意深く観察しながら、取材ノートにメモを走らせ続けた。特に橋本と城ヶ崎の間に流れる妙な緊張感が、ジャーナリストとしての直感を刺激する。
「ゴンドラ最終便、まもなく出発いたします」
アナウンスが流れる中、夕暮れの空には、白い霧が徐々に立ち込め始めていた。地元のスタッフによれば、この霧はアルトラモンテの名物となっているという。特殊な地形と気象条件が重なることで発生する濃霧は、幻想的な夜景の演出となる一方で、時として危険な視界不良をもたらすこともあった。
佐伯は、山頂へと伸びるケーブルを見上げた。2年前、このゴンドラで起きた事故の記憶が、彼の脳裏をよぎる。
当時の報道では「機械の故障による単純な事故」として片付けられた。地元紙も大手メディアも、それ以上の追及はしなかった。しかし、佐伯の取材は別の可能性を示唆していた。
匿名の内部告発メールには、こう書かれていた。
『事故の真相は闇の中です。アルトラモンテの経営陣は重大な不正を隠蔽し、責任逃れに必死でした。証拠は私が持っています。でも、このままでは私も……』
その後、送信者との連絡は途絶えた。
時計の針が、19時を指す。
「お客様にご案内いたします。本日は霧の影響による視界不良が予想されておりますが、運行に支障はございません。ご安心ください」
最後の光が山々の向こうに沈もうとしている中、乗客たちは順番にゴンドラに乗り込んでいった。
まず、愛紗が配信を続けながら元気よく乗り込む。
「これから山頂に向かいまーす!みんな、ドキドキする?」
続いて、三島が工藤に支えられながら、ゆっくりとステップを上る。
「ありがとう、若いのに親切なのね」
工藤は無言で頷くだけだった。
ファルハは相変わらずタブレットに目を落としたまま、ぶつぶつと何かを呟きながら席に着く。
「気圧の変動が……この時間帯としては……」
上條と桐生は、まるで意識的に距離を置くかのように、ゴンドラの反対側の座席を選んだ。しかし二人の視線は、時折密かに交差する。
橋本と中村は最後尾に座り、周囲を警戒するような素振りを見せていた。特に橋本は、ブリーフケースを膝の上に置き、その手を離そうとしない。
佐伯が座席に着く時、偶然にも城ヶ崎と隣り合わせになった。彼女は無言で窓の外を見つめている。その横顔に映る夕陽が、どこか寂しげに揺らめいていた。
「お父様の事故の時も、こんな霧でしたか?」
佐伯の言葉に、城ヶ崎の肩が小さく震えた。
「……どうして」
「2年前の事故を取材していました。城ヶ崎部長の死は、単なる事故ではなかったのではないかと」
彼女は振り向き、鋭い眼差しを佐伯に向けた。その瞳には、悲しみと怒り、そして何か決意のようなものが混ざっている。
だが、彼女が何か言いかけた時、ゴンドラが揺れ動き始めた。出発の合図である。
19時00分。
誰もが、これから2時間後に起こる惨劇など、想像だにしていなかった。
霧の向こうで、暗闇が彼らを待ち受けていた。
(第二章へ続く)